『嫉妬』

 

 この炎の輝きに全てを賭ける。

 ガスの量は完璧。つまみは当てにならない。

 信じられるものは己の経験と勘のみ。

 そう、絶対に焦がすわけにはいかないのだ。

 まだ目覚めぬ主人の為にも、完璧なもてなしをすることこそが使い間としての自分の使命。

 そう、だからこうして全身全霊を持って――

「目玉焼きくらいさっさと作るー!!」

 パコンっ!

「あ痛っ」

 後頭部に鈍い痛みを感じた。

 どうやらフライパンのように底が平らで掴み心地が良い取っ手が付いており、かつ程よい重量感を感じられる正にフライパンのようなフライパンで殴られたのだろう。

「何すんだい、エイミィ」

 目に涙を溜めて振り返るとやはり後ろには一人の女性が腰に手を当て、フライパン片手にこちらを見ているではないか。まったく人の頭を何だと思っているんだこの人は。

 栗色の髪の毛を後ろで束ねて呆れ顔を見せる女性、エイミィ。

かつて執務館補佐やメインオペレーターを務めていた頃の面影は薄れつつ、今では立派な二児の母であり、エプロン姿がすっかり板についてきている。

「まったくー、目玉焼き一枚焼くのにどんだけ神経使う気よー」

 はぁー、とため息交じりにエイミィは肩をすくめる。

「はい、さっさとどいてー。朝は時間との勝負だよ。ぼさっとしてないでご主人様でも起こしてきな」

 どいたどいたー、と言わんばかりの勢いでキッチンからアルフを追い出すことに成功したエイミィは早速朝食の準備へと取り掛かる。誰かさんがちんたら調理していたから進行が停滞していたため、時間はあまりないらしい。

 アルフは自分の仕事を半ば強引に奪われてしまったが、新たに重大な使命が与えられた。自分のご主人様を起こすというとても重みのある仕事だ。

 直ぐにアルフは寝室へと駆けていった。

 

 寝室の扉は閉じられている。

 まだ朝の気だるさに身を委ねているアルフのご主人、フェイトがこの部屋の中で寝息を立てているのだろう。

 アルフはフェイトを起こさぬように静かに戸に手を掛けた。

 音も無く素直に開いた戸の先には、布団に包まれて静かに寝息を立てるフェイトの姿があった。

 ゆっくりとベッドまで近づき、そっと覗きこんでみる。そこには寝息を立てるフェイトの寝顔があった。

 アルフは静かに微笑む。

「んっ……」

「っ!」

 起こしてしまったのだろうか、寝返りを打ったフェイトから咄嗟に離れた。

 ところが起きる気配はベッドからまるで感じられない。

 再び覗き込むと、そこにはいまだに眠り続ける姿が。

「――っ!!」

 そこでアルフは重大なことに気が付く。

 寝返りを打ったせいであろうか、フェイトの衣服が若干乱れているのだ。

 上に羽織ったブラウスは肩からずれ落ち、僅かに胸元がはだけている。そこに、長く伸びた金色の髪が滑り込んでおり、寝息とともに上下する双丘を覆っている。その髪とブラウスが上下運動とともに、ずれては隠しを繰り返していて、絶妙な鉄壁を保持している。

少しでも保った均衡が破れようものなら全てが露わになってしまいそうな状態だ。

「フェイト……」

 アルフが呟く。

 何かに誘われたかのように自然と手を伸ばした。

伸ばした先はフェイトへと向い、やがてその矛先はもう少しで全貌が明らかになってしまいそうなフェイトのふくよかな胸元へと――

「お姉ちゃん起きてーーー!!」

「朝だーー起きろーーーっ!!」

 どーんっ!

 再び背後に強烈な衝撃。

「ぐふぅ」

 勢いよく飛び込んできた物体に押されたアルフは、そのままの流れで目の前のフェイトへと突っ込んでいく。

 ああ、目の前に念願の谷間が迫っていくよ。

 何の抵抗もなくアルフはベッドへと倒れこみ、後ろから突撃してきた物体と共にフェイトに圧し掛かる形に収まった。フェイトからしてみれば朝からいい迷惑だろう。

 

「まったくー、朝は普通に起こしてっていつも言ってるのに」

 朝食の時間。

 朝から人の体重で押し潰されて起きるという割と奇妙な体験をしたフェイトだが、言動から察するに毎朝似た様な起こされ方をしているようだ。ご愁傷様です。

「私達はお母さんに頼まれただけだもんねー」

 ねー、とお互いの顔を見ながら騒がしく朝食を進めるのはエイミィとクロノの子供、カレルとリエラだ。二人とも育ち盛り騒ぎ盛りで朝から晩まで元気いっぱいといった感じだ。

「どうせエイミィがけしかけたんだろ、子供の教育にも良くないからやめろって言ってるじゃないか」

 その夫であるクロノが口を挟んだ。こちらはかつてアースラを指揮し、戦いの最前線に身を置いていた頃とは違い、今では立派な貫禄漂う二児の父である。

「あらあら、クロノも立派にお父さんっぽいこと言うようになったじゃない」

 うふふ、と脇からちょっかいを出したのは微笑を湛えたリンディである。今ではすっかり隠居生活だ。

「だってー、アルフに起こすように頼んだんだけどなかなか起こそうとしてくれなくて」

 エイミィは言い訳のようにフェイトに抗議した。

「だったら二人に普通の起こし方を教えてあげてよ、アルフもだよ」

 諭すようにフェイトは言った。

「だったら自分で起きたらいーじゃんかよー。ま、あたしは毎朝フェイトの寝顔が見られるから今のままがいいけどね」

 にまー、と頬を緩めてアルフは言った。

「それよりいいのかこんなにゆっくりしていて、今日から局での仕事が増えて忙しくなるって言ってただろ」

 ちらりと時計を見ながらクロノはフェイトに言った。

「あ、そうだった、もうすっかり忘れてたよ」

 フェイトは慌てて身支度を済ませるとすぐさま玄関まで駆けていった。

「行ってきまーす」

「慌ただしいなぁまったく」

 やれやれといった具合でアルフは苦笑する。

 とんだご主人様だ。

 

■□■□■

 

「さてっと、掃除でもしますか」

 家の者が全員出かけてしまったので、アルフは一人になってしまった。

 家に残った者がやることは一つ。

 最近ではもはや日課になりつつある家事に専念することにした。

 掃除洗濯等の家事全般を以前はエイミィの手伝い程度にこなしていたが、最近ではアルフに任せっきりな状態になっている。

 もとよりアルフはフェイトと共に、海鳴市からさほど遠くない地で二人暮らしをしていた経緯がある。そのため家のことに関してはある程度心得があり、面倒見がよく世話好きな性格も幸いし、苦労することなく暮らせている。

「フェイトの部屋でも掃除するかな」

 部屋の窓に近づきカーテンを開ける。窓を全開にして部屋にこもった空気を外の空気と入れ替えた。

「相変わらず掃除し甲斐のない部屋だこと」

 フェイトの部屋はいたってシンプルだ。物が少ないわけではないが、多いというわけでもない。本はきちんと本棚に収納されており、衣類もしっかりクローゼットに仕舞われている。要するに常に物が整理整頓されており、大きな掃除が必要ないということだ。これもフェイトの性格の表れであろう。

「いつもみたいに軽く埃取るだけで終わりそうだな」

 はたきを手に持ち部屋の中を見回して呟くと、机やら本棚を掃除し始めた。

 本棚の中身は様々だ。指導指南書やら経理関係やら工学関係など背表紙を見ただけで難解そうな本がずらりと並んでいる。どれもこれも今のフェイトの立場上学ばなければならない内容なのだろう。

本を手にとって中身を確認する気も起きなかったので、さっさと埃を取って掃除を済ませることにした。こんな本棚の前に一分もいたら頭がおかしくなってしまいそうだ。

 すぐに本棚の前から退散し次は机を掃除する。

 机の上も部屋同様に物が散乱していることなく整頓されている。ただ唯一物があるとすれば写真立てと数枚の写真くらいだ。おそらく整理しようとして出したままだったのだろう。

 本棚と同じように手早く済ませようとしたが、ふと手を止め、写真立てを手に取って眺めた。

 中には一枚の写真が収められている。

 視線を机の上に残った数枚の写真へと向ける。そこにも似たような写真が見受けられる。

 写真は全てエリオとキャロが写った物であった。

「このちびっ子達ももう六課の仲間入りか」

 ふふ、と思わず微笑んでしまう。

 ついこの間まで家族や友人といったものを知らなかった子達が今では立派な魔導師である。立派と言ってもまだまだひよっ子であるには違いないが。

「かわいいもんだ」

 写真はフェイトと写っているものも多かった。そして何枚もある写真のどれに関しても言えることがある。

「いい顔してんなー」

 笑顔。

 写真に写っているエリオとキャロは全て笑っていた。

 それがどんなに素晴らしいことか。アルフはその重みを知っている。子供が子供らしく生きるということは、簡単なようで難しい。

何の気概もなく、思い煩うことなく純粋に笑う。この写真の中の子達はそれが出来るようになった。

 フェイトのおかげである。フェイトがこの子達の保護責任者という立場になったことにより、二人に居場所が出来た。それは帰る場所であったり、笑い合う場所であったりと、他愛のないことであるが、この子達にはそれが何よりも大切なことだった。フェイトはそれを知った上で、二人の力になりたくて、名乗り出たのだ。

 二人に家族の大切さや友人のいる温かさを知って欲しくて。

「敵わないな、フェイトには」

 何枚もの写真を一枚ずつ眺めている内に改めて実感し、思わず言葉をこぼした。

「羨ましいよまったく」

 それは少し妬けてしまうくらいに。

 どうやら今日の掃除はいつもより時間が掛かってしまいそうだ。

 

■□■□■

 

「ただいまー」

 夕刻、帰宅を知らせる合図とともに、この家の主であるフェイトが帰ってきた。いつものように六課の制服に身を包み、いつもと同じ笑顔で帰ってくる。

「おかえり、フェイト」

 帰宅の合図を耳にすると、アルフは夕飯の支度を一時中断して玄関までフェイトを迎えにいった。

 アルフも日頃同様にフェイトの帰りを迎える。この主の笑顔の為に自分はいるのだと実感できる瞬間でもあり、アルフはフェイトの帰りを玄関まで迎えにいくのが好きだった。

「あーいい匂い、お腹すいちゃったよ」

 キッチンから漂う香りに反応したフェイトは、お腹をさすりながら微笑んだ。

「今日はアルフが夕飯の支度を?」

 家に他の者がいないことに気がついたのか、フェイトは部屋の中を見回した。

「そうさ、エイミィ達は今日は出かけてる」

 アルフもフェイトの後に続いてキッチンへと戻る。

「だから、今日はあたしが腕によりをかけまくっちゃうよ」

 アルフは腕をまくってぐるぐると回してみせた。

「期待してるよ」

 はは、と笑って「着替えてくるから」と言い残し自室へとフェイトは向かった。

 アルフはそのままキッチンへと向かい、中断していた料理を再開する。

 

「「いただきまーす」」

 二人揃っての夕食。いや、久しぶりの二人だけの食卓と言ったほうが正しいかもしれない。

 いつもはエイミィ、クロノ、リンディ、カレル、リエラ達がいて、賑やかな夕食であった。

 それに比べると、些か静かな夕飯ということになる。だが、決して寂しいというわけではない。むしろ久しぶりにフェイトと二人きりで食卓を囲むことにアルフは嬉しさを感じていた。

「前から私が保護責任者として面倒を看てた子達いるじゃない?」

 そういえばさ、とフェイトが話を持ち出した。

「ああ、エリオとキャロのことだろ」

 アルフはもちろん知っていた。何しろフェイトと一緒に二人が小さい頃からよく共に過ごしてきたのだ。まあ、今も小さいには変わりないのだが。

「ちびっ子達がどうかしたのか?」

 アルフはエリオとキャロのことをこう表現する。自分も小さいくせに何を言っているのだか。アルフの場合は子犬形態をあえて取っているから別問題かもしれないが。

「今日あの子達の初顔合わせだったんだ」

「おお、そうだったのか」

 エリオとキャロの二人はフェイトに引き取られた時期も異なり、また今まで引き合わせられることなく管理局入りまで話が進んだ。お互いの話は多少は聞かされていたが、実際に会うことはなかったのだ。これは、フェイトが二人の出自を考慮した上であえてそうしたとも言える。

「でも別に何の問題もなかったんだろ?」

「うん、そうなんだ。至って順調、問題なし」

 心配する程のことではなかったのだろう。話すフェイトの表情もどこか穏やかだ。

「最初からそんなに心配じゃなかったんだ。問題なのはタイミング。上手い具合に合わせてあげないとお互い遠慮し合うんじゃないかなってちょっと思ってた程度」

「だろうなー、あの二人がお互いに反りが合わなくて、喧嘩なんてするような性格じゃないしな」

 アルフも気軽に答えた。

 アルフもエリオとキャロのことはよく知っている。もちろん二人ともよい子だということを。

経歴が多少特殊であったとしてもそれは本人達に非があるわけではないのだ。ただ、生まれ育った環境が恵まれてなかったのだ。

「この調子で皆とも打ち解けてくれそうか?」

「うん、きっと他の隊の人達とも上手くやっていけそう」

 本当に嬉しそうにフェイトは言った。

 ここ最近のフェイトは二人のことばかりを話題に出す。しかもいつだって幸せそうな顔で話すのだ。聞かされている方が照れてしまうくらいの溺愛っぷりだ。

「フェイト、今幸せでしょ?」

「もちろん、最高だよ」

 少しからかうつもりで聞いたつもりが、そんなアルフの気も知らないで、フェイトは満面の笑顔で答えた。

 それはそれは幸せそうな表情で。

 見てる方が嫉妬してしまうくらいに。

 

■□■□■

 

「行ってきまーす」

 身支度もそこそこに慌ただしく玄関の扉を開け放ち、今朝もフェイトは駆けていった。

 相変わらず落着きがないのは毎度のことながら仕方のないことだろうか。アルフは軽くため息を吐いた。もう少し落ち着きのある朝は迎えられないのだろうかと。

「さーてと」

 掃除するかなー、と大きく背伸びをして部屋の中を見回した。

「ん? なんだこれ」

 アルフは視線をリビングの机の上に向けたところで止まった。机の上にはやや厚みのあるファイルが置かれている。

「あーこれはもしかして」

 そこでアルフは思い出す。昨夜フェイトがこのファイルに目を通していたことを。そして朝リビングにやってきた時も自分の席の脇に置いていたことも。

「まさか、忘れてったのかな」

 わずかな沈黙。

 仮にこれが忘れものだとしたら、フェイトはどうなるのだろうか。しかも重要な書類だとしたら。

 アルフは瞬時に様々な状況を想像した。

 このファイルを忘れたことによりフェイトは上司に怒られるだろう。しかも会議で持ち込まなければならない資料とかだったら多人数の前でフェイトは叱られるかもしれない。管理局の上司のことだ、フェイトに対してどんな辱めをするかわかったものではない。恥ずかしい格好をして一日中お茶運びをさせられたり、一晩中訳も分からず中年の上司の相手をさせられるかもしれない。

 マズイぞーー!!

 アルフの思考回路は最早正常に機能していない。あることないこと、いやその実ほとんどないことをつらつらと妄想しだした。膨らみ過ぎた妄想はやがて収まりきらずにアルフを駆り立てた。

「行ってきまーす!」

 居ても立ってもいられなくなったアルフはすぐさま家を飛び出した。

 

 ファイルは手に

 

 思考は何処に

 

 そして フェイトへの愛はこの胸に!

 

 この身に力を ラーブパワーー!!

 

 魔法幼女リリカルアルフ、ある意味終了のお知らせである。

 

■□■□■

 

「しかし六課の隊舎ってのは広いな」

 六課に到着したアルフはその広さに少々面食らっていた。何しろどこにこんな土地があったのだという程の敷地面積だ。内部の地理に疎い者が入り込んだらまさに迷宮。地図なしでの行動は命取りになりかねない。

 しかしこんな道に迷うような不審者を簡単に敷地内に入れてもいいのだろうか。セキュリティとかしっかりしているのか若干怪しいものだ。大丈夫か機動六課。

 隊舎内の構造は似たりよったりで、どこを歩いても同じような部屋や無機質な壁が広がってる。先を見渡しても目印になりそうな物が見当たらなかった。

 そして先程から同じところを何回も通過し、何度も辺りを見回しながら歩いている不審者が約一名。

 これはもしや――

 脳裏に嫌な単語がちらついた。

「迷子か……」

 何て情けない話だろう。

 忘れ物を届けに行く道中で迷子になるならわからなくもないが、届け先で当てもなく彷徨っていては何しに来たかわからないではないか。

 アルフは必死に考えた。何か解決策はないかと。

 人にフェイトの居場所を尋ねるか。いや、それはだめだ。そんなことをしたらフェイトの使い間はろくにお使いも出来ない等という良からぬ噂が立ちかねない。そうなっては六課を担う隊長としてのフェイトの顔に泥を塗ることになってしまう。それでは部下達に示しがつかないではないか。

 では一体どうするか。

 今の自分に何が出来るのだろうか。

「――でさ、大変なんだよ」

 ふと近くを通りかかった局員の会話が聞こえてきた。あまりにも集中して悩んでいたために人が通ったのに気が付かなかったようだ。

「何か大変なのか?」

 話題を振られた一人が訊ねた。

「いやー最近さ、鼻詰まりがひどくてな。もう寝苦しくて大変なんだ」

「なんだそれで最近訓練中も寝むそう――」

 なんだそんなことか、と大して興味深い内容ではなかったので、途中で聞き耳を立てるのを止めた。

「鼻詰まりねー」

 色々大変だなー、と再び当てもなく歩き出そうとする。

(ん? 鼻詰まり?)

 がしかし、一歩踏み出した時点でアルフの動きが止まる。

(鼻……)

 妙に引っかかる「鼻」という単語。何故気になるのか、そして何でこの程度のことで立ち止まっているのだろうか。

「あー! 鼻だーーっ!!」

 アルフは突然大声を上げた。

 そして気が付いた。一体何に引っかかっていたのか。

 そして「鼻」という単語の意味。

 アルフは自分の素体が狼であることを思い出した。そして狼にあって通常の人間には持っていないものを。

「匂いを辿ればいいんじゃないか」

 狼の鼻は人間のそれとは比べようもない程敏感である。したがって特定の匂いを嗅ぎ分けて探し当てるなど造作もないことだ。

 何故気が付かなかったのか。

 アルフは平和ボケしてすっかり狼素体であることを忘れていた自分を責めた。しかし責めたところで事態は進展しない。大切なことはこれからどうするかである。一刻も早くフェイトを探し出すことだ。

 アルフは早速行動を開始する。問題は元となる匂いである。

 手に持っているファイルに視線をやったが、すぐに諦めた。いくらフェイトが触った物であっても時間が経ち過ぎており、アルフ自身も持ち運ぶ間にずっと触れていたため、ほとんどあてにはなりそうもなかった。何よりも元となるのに適しているのは本人が常日頃から使用している物であったり、普段身につけている物である。

 しかしそう考えると今の現状で当てはまりそうなものは生憎持っていない。

 さて、どうしたものか。

 やはり最後に信じられるものは己自身。

「思い出すんだっ! フェイトの香りを!!」

 気合いを入れて記憶の糸を手繰り寄せる。

 ここ数日で最も接近して匂いを嗅いだのはいつだ?

 その時の香しさを思い出すんだ!

「――そうだ! 朝フェイトの胸に飛び込んだ時」

 確かに最も接近したのは今朝の出来事であろう。というより胸に飛び込んだのだから間違いなく超接近している。正確には飛び込んだのではなく突っ込んだのだが、そんな違いは些細なことだ。

 あの時のフェイトの体全体から発するやわらかな匂い。

 あの時の髪の毛から漂う甘い香り。

 あの時のフェイトの胸の柔らかさ――は関係ないか。

「来てるっ、来てるぞー!」

 アルフはついに前進し始めた。どうやらフェイトの香りを明確にイメージできたようだ。

「こっちか、こっちのほうなのかー!」

 長い廊下を進み、曲がり角をいくつも曲がっても、いっこうに歩く速度は落ちずに、迷うことなく突き進んでいく。歩く速度も徐々に速くなり、仕舞いには走り出した。

「こっちから匂うぞー」

 一心不乱に目的地を目指す。フェイトを見つけるのも、最早時間の問題だろう。

「こっちから、カレーのいい匂いがするぞぉおお」

 違うだろ。目的地を履き違えたままアルフは止まることなく加速していく。

 アルフまっしぐらである。

 

 辿り着いた先はもちろん食堂。

 時刻はもうじきお昼時ということもあり、局員達で賑わっている。

 アルフは迷うことなくカレーを購入。

「いただきまーって何してんだあたしはぁあああ」

 怒りにまかせてカレーにがっついた。結局注文したカレーは食べるのだ。だってもったいないじゃん。

 カレーを頬張りつつも本来の目的を思い出す。

「フェイトさーん」

 そうそう、フェイトを探してるんだ。ってあれ、今何て言った?

「エリオ、キャロ。こっちだよ」

「ちょっと待ってよエリオ君」

 うぇええええフェイトーー!?

「ごほっ、ごほっ!」

 動転したアルフはカレーを喉に詰まらせた。

 なんとフェイトは食堂にいたのだ。しかもエリオとキャロまで一緒である。結果オーライ、終わりよければすべてよし。

「なんだフェイトいるじゃんか、ファイル渡して本日の任務完了ってとこだな」

 アルフはフェイトに持ってきた物を渡しに行こうとして躊躇ってしまった。

 楽しそうだったのだ。

 フェイトがエリオとキャロの三人で食事をしている。

 ただそれだけのことなのに、いたって普通の光景のはずなのに。だが、とても他人が入り込める余地なんてありそうもない。

 アルフはただその光景を遠巻きに眺めることしか出来なかった。

 フェイトは終始笑みを絶やさない。本当に自然と笑みがこぼれている。家ではあんな表情をしていただろうか。あんな笑顔は見たことがなかった。とてもやわなかな笑顔は、フェイトが家では見せない表情であり、それが何故かひどく哀しかった。

 そしてそんなフェイトの気持ちを受け止める、エリオとキャロの満たされた笑顔。

 彼女たちの笑顔はアルフには眩し過ぎた。

 時に眩しいものは周囲を明るく照らし過ぎる。

 照らされた者には当然影が出来てしまう。

 アルフは照らされ過ぎてしまい、心に影が出来てしまったのかもしれない。

 フェイトの表情はなんだか見ていて羨ましかった。家では自分に対してあんな風に笑ってはくれないのだ。

 胸の辺りがちくりとした。

 胃がむかむかとし、次第に胸の辺りがざわつき始めた。

 これ以上は見ていられない。

 居たたまれなくなったアルフは、ファイルを渡すことも出来ずにその場から逃げる勢いで食堂を飛び出した。

 

■□■□■

 

「ふー……」

 気付いたら広い公園にいた。

 どこをどう走ってきたのだろう。夢中だったのであまり覚えていない。

 乱れた呼吸を整えて辺りを見渡し、近くにあったベンチに腰掛けた。

 そこでやっとアルフは自分がどこまで走ってきたかに気が付いた。

 公園の風景は微かに見覚えがあった。

 隊舎からそれ程離れてない位置にある公園であった。

 夕刻ということもあり、人数は多くはない。

 子供達が数人遊具で遊んでいたり、砂場ではしゃぎながら遊んでいる程度である。

「何で走ってきたんだっけ」

 自分がここにいる理由を思い出してみる。

 六課の食堂でフェイトを見つけたところまでははっきりと覚えている。

 確かその場にエリオとキャロもいたのだ。そして三人は楽しげに食事をしていた。

 そう、ただ和気あいあいと談笑していただけではないか。

 それなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうか。

 胸の辺りがざわついて落ち着かない。どうしようもなくて、どうすることも出来なくて、掻きむしりたくなる。

「妬いてるのかな……」

 エリオとキャロは本当に小さな頃から世話をしてきた。

 最初は本当に生意気で我侭で、でもちょっと人に慣れてくるといっさい不満も言い訳もしなくなった。本当に聞き分けが良すぎて困ったくらいだ。

 だから二人に対してこんな感情を持つことはおかしなことなのだ。

 だが、頭では理解できていても感情は上手く動かせない。二人とも好きなはずなのに、今ははたしてどうだろうか。

「うわーん、お兄ちゃんが〜〜」

 どこからか大声で泣く声がする。

 声がした方を見てみると、公園の広場で男の子が泣きじゃくっていた。

 その子の傍には、女性が一人とその子よりは若干背の高い男の子が一人いた。

「どうしたの、泣いてないでちゃんと話してごらん」

 どうやらその女性は泣いている男の子の母親らしい。ということはもう一人の男の子は兄だろう。

「えっとね、お兄ちゃんがね、僕のボール返してくれなくって」

 男の子は鼻をすすりながら説明した。

「ちげーよ、ちょっと借りてただけだって。ちゃんと返す予定だったもん」

 兄のほうがそっぽを向きながら反論した。

「こら、お兄ちゃんなんだからちゃんとしなきゃだめでしょ」

 あ、兄の方が怒られた。

「ほら、ごめんなさいして。帰るわよ」

 二人は母親に連れられて公園を後にした。

「お兄ちゃんなんだから、か……」

 自分もちゃんとしなければいけないな、とアルフはぼんやり考えた。

 自分の方がエリオとキャロより年上なのである。

 それなのに、たかだか三人で楽しそうにしてるのを見かけただけで嫉妬して、落着きを失くして、逃げ出した。

 何をやってるんだか。

 一人でおかしくなって、少し笑った。

 元気だせ、しっかりしろアルフ。

 自分はお姉さんだぞ、ちょっとは大人っぽいところを見せなくては。

「よし、アルフ復活ー!」

 ベンチから立ち上がると同時に空高く拳を突き上げた。

「さっさとフェイトを迎えにいってやるか」

 沈みかけの夕日に届かんばかりに上げた拳をそのままに、隊舎の方角へ歩を進めた。

 

「フェイト、フェイトに早く会いたい……」

 息を切らしながらアルフは走った。

 フェイトを迎えにいこうと思ったら、一刻も早く会いたくなってしまったのだ。なんて単純なんだろう、と一人苦笑する。だがそんな自分が好きだった。

 フェイトの顔を見て元気が出たり、フェイトのことを思って落ち込んだり、フェイトに会うためにひた走ったり。

 一人のために一喜一憂できる。こんなに幸せなことはなかった。

 しかし今日は走ってばっかりだ。これではフェイトに落ち着きがないと怒られてしまいそうだ。

 六課の隊舎が見え始めたころでアルフの足が止まった。いや、止まってしまったのだ。

 決して六課の隊舎が見えたからではなく、アルフの意識とは無関係に。

 アルフは自分が見ている光景に唖然とした。

 確かにフェイトはそこにいた。ちょうど帰り際だったらしく、こちらへと歩いてくる途中のようだ。しかしアルフの位置から確認できる人の数は一人だけではない。

 フェイトは一人ではなかった。

 たったそれだけのことなのに、アルフにとっては重大なことだった。それは数分前の決意を打ち砕くには十分過ぎるくらいに決定的なものだった。

 自分はフェイトを迎えに来たのだ。

 それなのに、なんで。

「なんであいつらと一緒なんだよ」

 奥歯を思いっきり噛んで言葉を吐き出した。

 どうして?

 その疑問を純粋に問うために。

 フェイトはエリオとキャロと共にこちらに向かって歩いてくる。

 エリオとキャロはアルフの存在に気が付いたらしく、呑気に手まで振っている始末だ。

 何を能天気なことをしてるんだ、あいつら。やっぱり許せない。

 だが、これではっきりとした。

「そうか、わかったよ」

 静かに呟く。今までの謎が解けて吐き出されるように言葉を続けた。

「エリオとキャロ。この二人が邪魔なんだ」

 夕闇が近づく頃合い。

 辺りが暗闇に包まれだし、静けさ漂う中、アルフはそう呟いた。