無我夢中だった。

 気がついたらいつの間にか家に着いてしまった。

 また走ったのだろうか。本当に疲れた。

 呼吸が乱れて上手く息が吸えない。整えようと深呼吸しても咽てしまう。

 最早走って疲れたのか気疲れしてしまったのかわからない。

 今日はもう寝よう。そう思った。

 家に入るなり直ぐにベッドに潜り込んだ。

 お姉さんらしく振舞うと決意してから、再び挫折するまでがひどく早い。自分の意思はこんなにも脆いものだったのか。

 寝て起きたら全て忘れていたらどんなに幸せだろうか。

 忘れることも逃げることもよくないことだとわかっている。

 でも大丈夫だった。

 寝ても決して忘れることなんてないし、まして逃げられるなんて思ってないから。

 ただ、絶対に嫌な夢を見るであろうことは予想できた。

 あんなおぞましい感情を持った自分が、今はひたすらに怖かった。

 もうエリオとキャロの顔はまともに見れない気がする。

 そしてそのまま寝ることももっと怖かった。

 そう思いながらも帰ってきたフェイトの顔だけは見たくなかったし、まともに顔を合わせる自信がなかった。

 だから寝た。

 

「どうしちまったんだ、あたしは……」

 

 エリオとキャロがちょっとフェイトと一緒にいただけでこんなに嫌な気持ちになってしまうなんて。

 せめてフェイトが自分に関心を向けてくれていれば救いがあるだろう。

 自分は、あの二人のことなんか忘れるくらいフェイトに夢中になれればそれでいいや。

 フェイトにさえ振り向いてもらえれば満足だ。

 

「そうか、フェイトの気持ちさえあたしに向いていれば……」

 

 そうだ、フェイトだけでいいんじゃないか。

 何も無理してエリオとキャロのことを考えることはないのかもしれない。

 フェイトが二人のことを考える暇もないくらいに自分に惹きつければいいのだ。

 

「なんだ簡単じゃないか……」

 

 乾いた笑いが口からこぼれた。

 その日はそのまま眠ってしまった。

 

 

 翌朝寝覚めは最悪だった。だが早く起きた。

 案の定嫌な夢を見た為に寝ざめは最悪だった。

 だが、だからこそ直ぐに体を起こす。

 いつまでも引きずってはいけないし、意味がない。

 気持ちというのは切り替えが大切だ。

 フェイトに振り向いてもらう為に今の自分に出来ること。

 まずはフェイトの胃袋をがっつりキープ。

 フェイトと言えども、食欲には勝てないのだ。

 やはり自分の胃袋を満たしくれる存在は大きいだろう。

 そこに付け込む隙を見出すのだ。

 思い立ったら即行動。脇道それずにまっしぐら。

 早速今日の朝から畳みかけるべし。

 名づけて愛妻弁当でフェイトのハートを鷲掴み作戦。

 

「我ながらいい考えじゃないかなこれは」

 

 早速エイミィにうるさく言われない内に、キッチンを占領することにした。

 

 

 

「フェイト、はいこれ。フェイトの為に作ったお弁当」

 

 朝食の席でアルフは、開口一番に弁当を差し出した。

 ちょっと意表を突かれたのだろうか。フェイトは少々面食らったようで、しかし直ぐに困った表情に変化した。

 

「あ、ごめん。今日は局の人達とランチ食べに行く約束があるんだ」

 

 顔の前で両の手のひらを合わせてウインクなどして見せた。

 あーもう可愛いなちくしょー、としばらくアルフが見惚れてしまったのも仕方のないことだろう。

 しかしそれも束の間。

 今はフェイトに見惚れている場合ではないのだ。今は作戦実行中だ。完遂するまでは気を引きしめていかなければ。

 

「フェイトの為に朝早く起きて頑張って作ったんだよ。フェイトの為にいろいろバランスとかも考えてさ」

 

 何としてでも食べてもらいたかった。その一心でひたすらに言葉を連ねていく。

 

「気持はありがたいんだけどね、大事な約束なんだよ」

 

 フェイトにももちろん悪気があるわけではないのだろう。

 ちょっと申し訳なさそうにして謝る。

 それがアルフの癪に障ってしまったのだろうか。

 

「大事な約束ってなんだよ。あたしの弁当より大事だってことか」

 

 言葉が勝手に吐き捨てられた。

 決して口にしてはいけないはずの汚い思い。

 

「え? ……今何て言ったの?」

 

 ただ、本当にぼそりと呟く程度だったので、フェイトにほとんど聞こえてなかったのが幸いだった。

 大事な約束も大切なのは知っている。

 でも、今は、今日だけは自分の思いに応えて欲しかった。ただ自分の作った弁当を食べて欲しかった。

 そんなに我侭な願いであろうか。

 まだ自分の弁当ごときじゃフェイトは振り向いてくれないのか。

 だが、ここまでして引き下がるわけにはいかない。

 

「で、でも。じ、じゃあお腹空いた時にでも食べ……」

 

 それでも、一縷の望みに賭けて食い下がった。醜く、曝け出して、フェイトの迷惑になってることは百も承知で引き止めた。

 

「ごめん、今日も急がなきゃいけないから。そろそろ出かけるよ。お弁当はリエラとカレル用にしてあげて」

 

 そう言い残すとフェイトはさっさと出て行ってしまう。

 取り残されるアルフ。

 不安はさらに募るばかりであった。

 一体どこで間違ったのだろうか。何故こんなに上手くいかないのだろうか。

 リエラとカレル用にしてあげて?

 これはフェイトの為に作った弁当なんだよ!

 口に出さずに感情をむき出しにして怒鳴った。

 絶対あの二人にもやるもんか。だったらこんなもの捨ててやる。

 アルフは弁当を手に取るとキッチンへと向かった。

 フェイトに食べてもらえない弁当になんて何の価値もなかった。

 でも今回は食べたくない、とはフェイトは言わなかった。

 まだ望みはあるのだろうか。

 

「別にあたしの弁当が食べたくないって言われたわけではないよね」

 

 食べたくないわけではないのだ。今回はタイミングが悪かったのかもしれない。

 こんなことで落ち込んではいけない。

 もっと頑張らなきゃ。

 

 あたしが頑張ればいいんだ。

 

 あたしが頑張らないといけないんだ。

 

 呪文のようにアルフはぶつぶつと同じ言葉を繰り返した。

 

■□■□■

 

 夕方のスーパーは騒々しかった。

 アルフは一人、夕飯の買い出しに来ていた。

 丁度タイムセールの時間帯なのだろう、周りは一円でも安いものを求める経済的な主婦たちでごった返していた。

 普通だったら騒々しく感じるであろうが、今のアルフはこの喧騒が心地よかった。

 もし静かだったら、暗い気持に負けてしまいそうだった。

 しかしそんな時にスーパーへ買出しなんて。

 なんだか間抜けで可笑しかった。

 自分はなんて呑気なんだ。何を呑気に買い物なんかしてるんだ。

 フェイトに振り向いてもらえないこんな時に。

 そんな思いが留まることなく次々に溢れ出していく。

 最近本当にフェイトの気持ちがわからない。アルフはそう感じていた。

 家に居ても胸がざわついて落ち着かない。そもそも自分の家が居心地が悪く感じてしまう。

 

「あたしにとってあの家って何なんだろう」

 

 ふと疑問に思ってしまう。

 自分が家に居る理由。それはもちろんフェイトの帰るべき場所に居てあげるためであった。

 きちんと毎日帰りを待ち、安心して帰って来てもらえるようにすることが自分の今の立場、つまり使い魔としての使命であった。

 前線に立てないことは恥なんかでなく、むしろ今の役目を誇りに思っている。

 フェイトに安堵してもらえればそれでよかった。

 それが自分自身の生き甲斐であった。

 しかし、最近はどうだろう。

 フェイトは除々に家に居る時間が短くなってきているだけでなく、家に居る時でさえ忙しなさを感じてしまう。帰りは遅く、朝は常に慌ただしい。

 こんな生活がいつまで続くのだろうか。

 

「今のフェイトの生活にあたしって必要なのかな」

 

 嫌な想像をしてしまう。

 それは最悪のイメージ。

 いままでの自分自身の生き甲斐を完全に否定されるようなものであった。

 でも。

 もしかして。

 ひょっとして。

 不安は拭い切れない。

 

「あたしは本当にあの家に居ていいのかな」

 

 もしかしたら邪魔な存在なのではないか。

 居ても居なくても変わらないのではないか。

 

「このままフェイトの使い魔として、生きていけるのかな」

 

 フェイトの使い魔としての自分がわからない。

 フェイトの為に出来ることは何なのだろうか。

 実際口にしてしまうと実現してしまいそうで恐ろしくなった。

 

「もしかしたらあたしっていらないんじゃ……」

「いらないっ!」

 

 突然の大声。

 アルフは思わず固まってしまった。

 本当に頭の中が一瞬にして真白になる。

 まるで図ったようなタイミングでの叫び声。

 胸の奥がざわついた。

 

(え? 今何て言ったんだ……)

 

 耳を疑う言葉。

 腹の底から湧きあがる気持ち悪い焦燥感。

 次第に吐き気を伴った衝動は耐えきれずにアルフを動かした。

 振り向くとそこには言い争う親子の姿。

 子供が何やら駄々をこねているようだ。

 蓋を開けてしまえばなんてことはない。

 ただの子供の声が自分の心境と偶然重なってしまっただけだ。

 それだけのことだったが、今のアルフを動揺させるには十分過ぎた。

 まるで自分のことを言われたようで。

 

「はは、なんだ子供の言うことか」

 

 諦めからなのか、安堵からなのかよくわからない言葉が口からこぼれた。

 

 

 帰るべき家が見えてきた。

 癒しの空間まであと少し。

 そう考えると次第に足取りも軽くなる。

 不思議だ。

 家に帰るだけなのにどうしてこんなに浮かれてしまうのだろう。

 疑問に思って間もなく、その問題はすぐ解ける。

 家に帰ればフェイトがいるのだ。

 たったそれだけのことで救われてしまう自分がいる。

 フェイトの気持ちも大事だが、アルフにとってフェイトの傍にいられることの方が重要であった。

 家ではそれが叶うのである。

 誰にも邪魔されない空間。

 

「今日は久しぶりに甘えちゃおうかな」

 

 口笛を吹きながらアルフは玄関の戸を開けた。

 

「たっだいまー」

「あ、おかえりなさいアルフさん」

「お邪魔してます」

 

 返って来た声はフェイトのものではなかった。

 ましてこの家のものでもない。

 リビングの奥から返して来た声の主達は、奥からひょっこり顔を出してこちらを伺っている。

 アルフは玄関先から動けないでいた。

 なんで?

 どうして?

 疑問ばかりが先走って全然思考がついてこない。

 何故この二人が家に居るんだ。

 おかえりなさい?

 お邪魔してます?

 ふざけんな!

 誰の許可貰ってくつろいでやがる。

 

「あ、アルフおかえりー。今日はね、お客さんを呼んじゃいましたー」

 

 リビングの奥からフェイトが顔を出し、エリオとキャロの背中を押して玄関まで迎えに来させた。

 

「アルフさん、僕荷物持って行きますね」

 

 エリオが手際良く、アルフが取り落としそうになっている買い物袋を手に取った。

 

「今日は私もお料理手伝っちゃいますからね」

 

 腕まくりをして、無邪気にキャロは微笑んだ。

 

「ほら、二人とも戻るよ」

 

 アルフもね、と付け足してフェイトはリビングへと戻って行った。

 何だこれ。

 自分はどれだけ浮かれた気分で買い物に行っていたんだ。

 何を能天気に帰って来たんだ。

 

 こんなはずじゃなかったのに。

 

 

 

「あはは、もう無理だよフェイト」

 

 アルフは玄関先から未だに動けずにいた。