――YURINOTE――

「ご、ごきげんよう」 
 
 
かしゃ。

「――ごきげようっ!」

 かしゃかしゃ。
 さわやかとは言い難い朝の挨拶に、軽快なシャッター音が重なる。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日は天使には程遠い引きつった笑顔で、背の高い門を走り抜けていく。急いでいても朝の挨拶を忘れないのはさすがと言うべきか。
 現在時刻は朝の八時二十三分。予鈴はとっくに鳴っている時間である。
 私立リリアン女学園。
 明治三十四年から続く伝統あるカトリック系のお嬢様学校である。
 もちろん、そんなお嬢様学校の生徒であるから、遅刻ギリギリで走るなどといったはしたない行為を犯すはずもない。
 しかし、いくらお嬢様と言えど一人の人間である。
 必ずしも毎日の朝拝に間に合うように布団から起きられる保障は誰にもできない。
 やはり、お嬢様たちも朝寝坊をするのである。
 普段走るなんて行為は決してしないお嬢様たちも、遅刻するとなれば話は別だ。
 白いセーラーカラーをばたばたと翻らせ、スカートのプリーツも乱れに乱れさせつつ、数人の生徒たちが必死に駆け抜けていく。
 汚れを知らない純白の肌をした太腿が、時折乱れたスカートからその姿を露にする。
 そんな貴重な瞬間を好き好んでカメラのフィルムに収めようとする変態がこの学園には一人存在する。由々しき事態だ。早急に守衛さんに突き出したほうが学園の為ではないだろうか。
 通路脇の茂みの中に身を潜めている通称「カメラちゃん」こと武嶋蔦子は、無我夢中でシャッターを切りまくる。

「たまんないねぇ〜あの白い肌」

 息を荒げ、恍惚とした目線をレンズ越しに向けている。もはや盗撮どころの問題ではない。精神的にどこか異常をきたしているご様子だ。というかご自身こそ時間は大丈夫なのだろうか。もうすぐ朝拝が始まる時間だ。それにもかかわらず、蔦子には慌てる素振りすら見られない。どうやら彼女にとって遅刻と天使たちの太腿を天秤にかけると、盛大に後者のほうへ傾くらしい。

「こんなもんかな」

 よっこらしょ、と重い腰をようやく持ち上げて茂みから足を踏み出す。今からでも走れば間に合うらしく、蔦子も高等部校舎へと駆け出した。

「今日も大漁だったなぁ」

 本日の朝の収穫量に顔をにやけさせる。

「でも、さすがに毎朝撮ってると物足りないわね」

 毎日こんな早朝から盗撮紛いの事をやってらっしゃるのだろうか。随分とご苦労なことだ。
 しばらく走ると前方に二股の分かれ道が現れた。そこには柵に覆われた小さな森があり、中心にはマリア様の像が鎮座している。リリアンの生徒はなかなかに信仰心の強い生徒が多く、大概の生徒達はこのマリア像の前で立ち止まり、手を合わせてお祈りをする。特にやらなければいけないという校則ではないが、幼少のころからの習慣がそうさせるという生徒も多いらしい。
 蔦子は銀杏並木の分かれ道にあるマリア様の像へたどり着いた。多くの生徒同様に、蔦子も慣わしに従い立ち止まって手を合わせた。さすがは腐ってもリリアンの生徒だ(失礼)。

「うーん、あの程度のエロスではこの気持ちは満たされないわね……」

 思想の自由が保障されている国許に生まれたことを感謝したほうがいいのではないだろうか。この際何を考えているかは別問題にしよう。目を瞑りながら何やらよからぬことをぶつぶつと呟く蔦子。

「やはり絡みなのか? 私は乙女達の絡みを求めているのか!?」

 答えの出そうにない自問を口に出す蔦子。

「ああマリア様。いけないと解りつつも邪な幻想を抱いてしまう私をどうかお許しください」

 幻想とは名ばかりの妄想を抱く蔦子。

「そして、お許しついでに私の願いを叶えてください。私は無垢なる乙女達の絡みをこのフィルムに残したいのです!!」

 あろうことかマリア様に無茶苦茶なことを申し出る蔦子。いくら力強く懇願したところでマリア様が邪推な願いを受け入れてくれるはずはないだろう。

「さーて、そろそろ行かないと――?」

 無茶を言い終えるや否や、再び走りだそうとした蔦子は足を止めてしまった。なにやら端の木陰を見つめている。
 綺麗に整備された石畳の端っこには植え込みによる控えめな木陰が出来ていた。蔦子の目に止まったのは黒い影の中にひっそりと佇む白い一冊のノート。真っ白に塗りつぶされたそのノートは一見地面に突如開いた白い穴に見える。しかし、ノートの一部分だけ対照的に黒くなっている。それはアルファベットを思わす記号を現していた。
 縁なし眼鏡がキラリと光る。黒い文字を繋ぎ合わせるとこう読めた。

「……ゆりのーと……?」

 怪訝そうな視線をノートに向けながら、おそるおそる手にとってみる。
 中身を確かめるべく、ノートの端を持って開こうとしたとき、不意に背後に気配を感じた。驚いて振り向くとそこにはマリア様がいた。当たり前だ。さっきまで拝んでいたんだから。先程までと同じように、柵で覆われた小さな森の中にマリア像は佇んでいる。何ら変わった気配は感じられない。

(気のせいかな?)

 小首を傾げながらも、気を取り直して前に向き直った。

「お待ちなさい」

 歩き出す前に後ろから声をかけられた。よく通る澄んだ声が耳の中で反響した。
 呼ばれるままに振り向こうとして、ピタリと止まった。

(あれ? さっきまで誰もいなかったような……っ!)

 そこまで考えて思考が停止する。心臓が飛び跳ねた。
 自分の意思とは関係無しに、馬鹿げた疑惑がじわりじわりと湧き上がる。
 おかしい。たった今後ろを見ていた時は確実に誰もいなかった。自分の目で見た事なのだから間違いない。ということは、誰かが自分が前を向いた一瞬の隙にどこかから現れたのだろうか。いや、ありえない。ほんの一瞬だった。あれだけの間にそんなことできるわけがない。そんな考えばかりが蔦子の頭に入り乱れる。

(じゃあ一体……、まさかっ。いやそんなことあるわけない)

 先程そこにいたのはマリア様の像だけだった。裏を返せば、マリア様の像だけはあったのだ。
 だが、そっちのほうこそありえない。マリア様は像だ。しゃべるわけがない。
 消去法で残った可能性を即座に振り払う。
 しかし、蔦子の頭からはもしも、という言葉がなかなか離れなてくれない。
 脳裏に湧き上がり、こびり付いたままの疑惑はそのまま不安と好奇心によって押し流される。
 蔦子はおそるおそる振り返った。
 マリア様がみていた。
 目が合う。
 そこには汚れ知らずの真っ白い像がいた。しかも浮いている。
 何も言葉が出てこなかった。思考が目の前の出来事に追いつかない。ただただ空中に漂うマリア像を見つめていることしか出来なかった。 

 
 昼休みの図書館。
 一番奥の席に不審者、もとい蔦子はいた。
 机の上には一冊の白い大学ノートが閉じたまま置かれていた。
 蔦子は先程からこのノートの表紙を眺めている。
――『YURI NOTE』――
 この『YURI』とは『百合』のことであろうか、と疑問に思う。
 もちろん蔦子の頭の中にはユリ目ユリ科の何たらとか、多年草がどうのといった言葉はどこを捜しても出てこない。
 蔦子の考えている事は唯一つ。清らかな乙女達の絡みのみ。
 日焼けのしていない真っ白な肌を露にして絡み合う乙女達。最初は戸惑いがちだが次第に高揚し、お互いに激しく求め合う二人。甘い吐息が掛かる距離。頬を撫でるすらっと伸びたしなやかな指先。指先は滑るようにして下へと移動する。そこにはゆっくりと規則正しく上下に揺れる二つの頂。
 漏れる声。乱れる呼吸。紅潮する肌。淫らで扇情的な光景はそれでいてどこか静謐な雰囲気も併せ持つ。
 その行為は彼女達だけの秘め事。
 そんな秘め事をレンズ越しに覗き見ることを考えただけで……。
 じゅるり。

「はっ……! いかんいかんヨダレが」

 リリアンの生徒に有るまじき行為を犯す蔦子。はしたなさ全開の様子をご披露してはいないだろうかと、慌てて蔦子は周囲を窺った。
 近くの書架には目当ての本を探している生徒はいなかった。少し距離を置いた机には勉強する生徒や、本を閲覧している生徒達がちらほら見受けられる。
 誰も、蔦子のほうへは関心を向けていなかった。
 そう、不思議なことに。空中を漂う世にも珍しいマリア像がいるにもかかわらず、誰もこちらに関心を示す素振りを見せない。

「ちなみに私の姿はそのノートに触れた者にしか見ることはできません」
「だろうね」

 何を今更、といった感じで答えた。
 他人にマリア像が見えているならば、朝教室に入った時点で大騒ぎになっていたであろう。
 教室に入って席に着いても、誰一人として蔦子の背後に漂うマリア像には気が付かなかった。この時点で蔦子は他人にはマリア像が見えない、と確信していた。

「念の為に言っておいたのです」

 別段怒った風でもなく、淡々と断りを入れた後、ですがと続けた。

「そのノートに触れれば誰にでも私の姿は見えてしまいますからね」
「ご忠告どうも」

 生返事もそこそこに、マリア像に向けていた視線をノートに戻した。
 軽い気持ちでページを捲ってみる。

『これは女神のノートです』
 
 目次らしきページの一番上にはそう書いてあった。
 意味が分らなかった。
 女神のノートです、って言われてもだからどうしたという感じだ。
 疑問に満ちた頭で下の文字を読み進めていく。
 蔦子の頭に半分だけ困惑成分が入り混じった。
 そこにはこう書かれてあった。

『このノートに名前を書かれたお嬢様は乙女を好きになる』
 
 思わず蔦子は我が目を疑った。
 偶然すぎた。今日の朝、マリア様の前でお願いしたことが叶うのである。
 しかも名前を書くだけという実にお手ごろ感覚。今すぐにでも数十人の名前を書きたい衝動に駆られる。だが、文章にはまだ続きがあるようだった。
 逸る気持ちを抑えつつ次の行へと視線を移す。
 
『書くお嬢様の顔が頭に入っていないと効果はない。ゆえに同姓同名の人物に一遍に効果は得られない』
『名前の後にお嬢様界単位で四十秒以内に好きになる対象を書くとそのお嬢様と絡もうとする』
『好きになる対象を書かなければ全てが露出狂となる』
『好きになる対象を書くと更に六分四十秒の間詳しい絡み方、絡み具合及び受け攻め等の詳細を記載する時間が与えられる』

「ふー……」

 背もたれに寄りかかりながら嘆息する。
 最初は半分くらいは信じていた。だが、それもきっと興奮していたからに違いない。
 読めば読むほど疑念は増して、ただの悪戯に思えてくる。
 冷静になって思えばなんてことはない。これは嘘だ。こんなことが起こる訳が無い。当たり前だ。ノートに名前を書いただけで、百合状態に陥るなんて馬鹿な話があってたまるか。そんなことなら誰も苦労はしない。いや、この場合苦労をするのは蔦子本人だけなのだが、残念ながらその場にそのことを気づかせる人はいなかった。

「信じるかどうかはあなた次第です」

 蔦子の挙動を見守っていたマリア像が口を開いた。

「そんなこと言われても……!」

 椅子を跳ね飛ばしながら立ち上がる。
 立ち上がりざまにマリア像へと向き直った。
 マリア様はしゃべって動いておまけに宙に浮いている。
 そうだった。
 こんなものを見せられていたら信じるなっていうほうが逆に難しい。
 蔦子はすっかり失念していた。
 だが、このマリア像と白いノートを安易に繋げていいものだろうか、というまたしても堂々巡りを開始ししそうな考えが過る。
 ノートを閉じて再び考え込んだ。
 仮にもしこのノートが本物だとしたら……、なんて馬鹿な考えが浮上してくる。蔦子は頭を振って必死にその考えを心の奥底へと沈めた。
 だが、そう易々と沈められるほどの力は無かった。蔦子自身の好奇心も手伝ってか、強力な浮力で馬鹿な考えは再び脳裏に浮き上がった。

「まずは確かめないと確信は持てないわね」

 言うや否や、蔦子は唐突にノートを持って図書館を飛び出していった。


 蔦子はドアを弾き飛ばさん勢いで教室に駆け込んだ。そんな派手な登場をしたら嫌でも注目を集めてしまいそうだが、今は昼休み真っ只中。各々が様々な話題に花を咲かせている。駅前の店のパフェがおいしいだの、大通りのスウィーツがどうだのと実にかしましい。
 そんなところへ一人の人間が教室に飛び込んできたところで、誰も注意を向けなかったのは当然と言えば当然だ。 

「ちょっと、何をなさるおつもり?」

 慌てて追いかけてきたマリア像が蔦子に遅れて教室に飛び込んだ。

「いいから黙ってて」

 肩で息をしながら、蔦子は教室中を食い入るように見回した。
 教室の後ろで話し込んでいる三人組を軽く流して教卓の前の二人組みを視界の端で確認し窓際に視線を向けたところで蔦子の挙動が止まった。

(――いた)

 しばし巡視した後、蔦子は何かを発見する。視線の先に捕らえたのは同じクラスの桂さんだった。
 蔦子はちょうどいい獲物を見つけたかのように心を躍らせた。左手に持ったノートを握り締めながら、早足で教室を出た。心臓の鼓動がおかしいくらいに早まる。出て直ぐの廊下の壁に背中を預けて、ゆっくりと深呼吸。
 駄目だ。
 収まらない。心臓は依然として落ち着かない。
 だが、蔦子がこれからやることを考えれば無理もない。
 蔦子は背中を預けた姿勢のまま、左手で持っていたノートをおもむろに両手に持ち替えた。無意識に強く握りすぎた為だろうか。若干ノートがひしゃげて歪んでしまっている。
 震える手で白いノートの端を掴む。慣れないような手つきでノートを開いた。ポケットからシャーペンを取り出す。簡単な動作が酷く困難な事のように感じる。
 名前を書き終えるとノートを閉じた。直ぐに時計を確認しながら教室を見渡す。
 ここからが長かった。
 蔦子にとって、おそらく人生で一番長い四十秒間だったに違いない。
 いらいらしたところで時間は早まることはないが、最早落ち着くのは不可能だった。
 頬を汗が伝うのを感じる。蔦子はずれた縁無し眼鏡を直した。
 ――残り二十秒。
 正に手に汗握ってその瞬間を待ちわびる。あーあノートがびしょびしょだ。
 濡れてしわが出来たノートを見て、マリア像が顔をしかめた。
 ――残り十秒……五……四……三……二……一……〇……。

(どうだ――!)

 ノートに名前を書かれた人物、桂さんを凝視する。
 クラスメートと談笑していた桂さんはふと、おもむろに立ち上がった。そのままの状態で動かなくなった桂さんを周りの生徒達が不安げに見上げる。
 桂さんは腰を曲げて、スカートの裾を掴んだ。 

「あの……桂さ――!」

 心配になって声を掛けた生徒が絶句した。
 桂さんが裾を持った手に力を込めた。そしてそのまま一気に上までスカートを捲り上げた。 
 近くにいた生徒達はあまりの突拍子も無い行動に唖然としている。だが直ぐにその沈黙も破られた。
 悲鳴。
 一呼吸おいてから誰かが唐突に叫んだ。連鎖反応で次々に教室のあちこちから悲鳴が上がる。たちまちにして教室には悲鳴の嵐が吹き荒れた。
 しかし、その嵐に巻き込まれていない人物が一人いた。その唯一の人物は何やら脳内で叫んだ。

(き、決まりだ! 『YURI NOTE』本物だ!!)

 そのまま廊下を駆け出していった。
 走りながら今度は口に出して叫ぶ。

「私は新世界の女神になる!!」

 その雄たけびは廊下の端々へと響き渡った。